義士への鎮魂

大石内蔵助による元禄十四年の赤穂城明渡しは実に手際よく、見事なものであったと言う。
歴史に拠ればその六年前に備中高梁の松山城がお世継ぎ不在のために改易となり、明渡しの労をとったのが大石であった。
備中高梁には水琴窟を考案した小堀遠州が国奉行として慶長九年から滞在し、遠州の手になる頼久寺庭園が今も残されている。内蔵助も執務のかたわら水琴窟の妙なる音色に耳を傾け、疲れた心を癒していたのではないだろうか。 

主君に中誠を尽くして散った四十七士の祟高な精神に心から敬慕の念をこめて、水琴の音を捧げたい。